金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

現実の中の夢

先日、通訳者になった。正確に言うと、派遣会社と結ぶ派遣契約書の契約業務の欄が、通訳のみになった。実際の業務の中では翻訳もやるのだけれど、その欄が通訳のみになったのは初めてだった。通訳・翻訳と書かれていた頃は通訳者と名乗って良いのか分からないというか、まだ半端者で名乗れない気分が何となくあったのだけど、ようやく名乗っても怒られない気がした。

まだ10歳前後の頃、笑って良いともに出演していた外国人の後ろにいた通訳者の方を見て、「自分はあの人と同じ仕事をするんだ」と何となく思ってから数十年、ここまで来るのに随分長かったと思う。

今の職場に来て以来、通訳学校で聞いた先生方の完全無欠なパフォーマンスには程遠い破れかぶれのそれながら、人と人との間に入って役に立てる事の喜びを噛み締めている。

大体午前2時間午後2時間、休む間も無く連続でコキ使われ、1日の終わりには脳のリソースがギリギリになるのを感じながら、それなりの充実感がある。ただ、勉強する事は山積みで、常に知識を得て仕事に還元しているにも関わらず、時々はこいつ使えねーな的な顔をあからさまにされる。英語が分かると言うだけで、話者の言う事全てが分かるだろうと思われてしまうのは良くある話で、日本語だって分からない話はあるのにと思いつつ、その時の精一杯の範囲で仕事をする。

小さい頃夢見た通訳者は、魔法の様に全てが理解できる人で、何の努力をしなくてもそこにいられる存在だった。なって初めて分かるのは、思っていた程キラキラなんてしていないし、泥臭い努力をして初めてそこに居られる事、そしてそこに居続けなければ通訳者とは呼ばれないと言う事。当たり前だけれど、一瞬それに「成る」だけならばそこまで難しくはなく、それであり「続ける」事が本当に難しいんだと身体で感じている。

それでも、これを選んだのだからこれ以外無い。本当に何かを成す人の対象への想いは淡々としているといつも思っていたけれど、淡々としなければ続けられない程、続けるという事には労力が要るのかもしれない。

明日も人の間に入って、淡々と訳す日が来る。でも選んだ明日が来るだけ、本当に幸せなんだと思う。現実の中にある夢がいつまでも続くように、明日も努力と言う代償を払う。

正義はお手軽ではない 追記

係員の方が110番し警察の方が来るまでの間、被害女性と少し話をした。これから起こり得る可能性について、年若い方だったので知らないかもしれないと思い、私がそれを言う権利は無かったのかもしれないけれど、老婆心ながら伝えた。

示談も告訴も両方あり得る、告訴は犯人の人生を終了させかねないし、示談にすればお金がもらえる可能性もあるから、とても怖かっただろうし、悔しいかもしれないけれど、そこはどうするかよく考えて、と言った所、何も答えずにただ頷いていた。

とても大人しそうな可愛らしい方で、被害に遭ってしまうのも仕方ない雰囲気の方だったのだけれど、結果的に犯人は逮捕されたのだから、告訴を選んだと言う事になる。その強さが意外だったけれど、そうして当然な事に間違いは無かった。

以前同類の犯罪で、人が捕まる所を第三者として目撃した事がある。取り押さえた人は係員に意気揚々と、その人の普段を存じ上げないにも関わらず意気揚々としているようにしか見えない程意気揚々と、犯人について目撃した事を係員に伝えていた。逃げようとする犯人を恫喝していて、オイオイそれは係員の役目だろ、と野次馬ながらに思った(野次馬と言うよりは、犯人が逃げないように道を塞ぐ手伝いをしていたのだけど)。その経験があったから今回、自分の中で正義感より義務感が大きくなったのは間違いない。

人の生殺与奪権を握った時、人はどれだけ残酷になれるのだろうと思う。その人間の心理から来る悲劇を題材にしたのがesと言う映画で、立場と環境は人格までも変えてしまう事を伝えていた。だからそれを行使する時、そこに私情を混ぜず極力事実のみに判断を委ねる事、そこから浮かび上がる不正があって初めて人は公平に裁かれる事を改めて学んだ気がする。

もちろん彼女は訴えて然るべき人で、そうする事に何の咎も無い。ただ、私も含めて人1人を裁いた重さは存在する。罪悪感は無いが重みは感じる。彼女がどうかはもう分からないが、私は折りに触れこの重さを思い出すんだろう。

ちなみに目撃だけした方の犯人は見た目が本当にヨレヨレで同情すらしてしまいかねない風体だったのだけれど、後日同じ場所であからさまに不審な動きをしているのを見かけて、どうしようもない人は逮捕された所でどうしようもなさが抜ける訳では無いんだと情けなくなった。件のおじいちゃん警察官が、この手の犯罪は再犯率高いんですよ、逮捕されたされない関係なくねと言っていたので、私が逮捕した人が再犯しない事だけは是非お願いしたい。この重さが、無駄な脱力に変わって欲しくはない。偶然にも上司と同じ苗字だったので忘れようが無いのだけど、フルネームを覚えてないのは救いだ。その後を知る由も無いのは、ある意味幸せなんだと思う。

才能は悲しみと共に

何らかの創作を嗜む人で、才能のある人を無邪気に羨む人の無邪気さが苦手だ。以前も書いた記憶があるが、自称シンガーソングライターの昔の知人が「創作の源になる悲しみを持った人がずっと羨ましかったけれど、そんなもの無い方が良いんだと思った」と言うような趣旨の事を言っていたのを聞いて、その人の作るものが微妙な理由を垣間見た気がした。

先天的な才能も、後天的な才能もどちらもあって、前者は律するのに高潔な人格を必要とし、後者は何らかの悲劇的な経験があるが故にそうなっていると思う。前者の例は玉置浩二や飛鳥で、後者のそれは秋元康YOSHIKIがあてはまると考える。

玉置浩二はあれだけの才能を律するのに、献身的な奥様と時間の経過が必要だったし、飛鳥は才能に負けて精神的に還らぬ人となってしまったに等しい。秋元康は東大に入り官僚になる夢が叶わず「今の生活はドロップアウト」だと明言しているし、YOSHIKIは早くに父親が自殺した。

多くの富と名声を得たけれど、内に怪物を飼うか、または何かを失ってまで欲しいものだったかと思うと、必ずしもそうではない気がする。ただ、悲しみを得たからには代償が欲しい。答えを探した道程が創作物に変わったのならば、だからこそ説得力を持つように思う。

才能は、憧れている間が一番幸せなんだろう。得た後の苦悩も、得るまでの悲しみも、望んで背負わされはしない。ただ一旦背負わされてしまったならば、そこにあるものを活かして生きる事も出来る、ただそれだけの話だ。

才能を得てしまった人々が、その上で幸せだと言えて欲しい。そういう人々の悲しみを目の当たりにする度に、望んだ訳では無い才能が、彼らに幸せをもたらす事を願う。

正義はお手軽ではない

人を逮捕した。した事になってしまった。詳しくは書かないが、とある性犯罪の一部を始終目撃した。被害者を守りつつ係員に犯人を突き出し、警察の方が来るまでの間、犯人は何故か私に謝り続け、その気持ち悪い時間は永遠にも感じた。

最初は示談で済まされると思っていたのだが、どうもその手続きは飛ばして110番されたらしく、結構な人数の警察の方が来て下さった。状況についていくつか質問をされた後、個人情報を渡し、被害者の方と一緒に警察署に移動した。

知人ではないために、被害者とは別室、所謂取調室に通された。ここに来た事がある人生になってしまったかと思ったけれど、何も犯人だけがそうなるのでもない。

私服の方、制服の方、色んな方が入れ替わり立ち替わり入って来て、起きた場所でもされたのと同じ質問をされた。同じ質問に答えた回数は、総計で二桁になった。整合性を取るためだろうし、その事前知識はあったものの、深夜近かったせいもあってか、流石に心身に堪えた。段々、自分の言葉の境目が分からなくなって行った。だから余計に、話している事実の整合性を自分でも取る必要があった。寒い部屋で固い椅子に長時間座らされる、随分と非日常で過酷な状況で、頭のリソースが急速に無くなって行った。それでも、正義感と呼ぶには薄い義務感で答え続けた。

そのうちに、パソコン一式を持った方が入って来た。後から分かったのだけど、供述調書だとか、そういう書類を作成される方だった(今までの聴取は、書類作成には全く関係が無かった!)。優しいおじいちゃん警察官で、一般人のただの興味本位な質問に、守秘義務に触れないだろう範囲で色々と答えてくださった。この方が来てからは、そこに居る事が少し楽しくなった。

「もし犯人が否認して、私と被害者の方の供述が一致した場合、犯人はどうなるんですか?」

「えーと、もう既に逮捕されてますよ。」

事もなげにあっさり答えられて、背筋が凍った。今日犯人は家族に連絡を取ることは出来ず、その理由を会社と家族に説明しなければならない。その事後がどうなるか、容易に想像が出来る。罪悪感は無かったけれど、自分の行為の重さが背中に覆いかぶさって来た。

「事前に知ってはいましたが、随分と同じ質問を何回もされるんですね」

「そうですね、(供述調書に)書く事に間違いがあってはいけないので。申し訳ございませんがご協力ください。これが、悪い事をした、人1人を裁く重さなんですよね」

正義とはお手軽ではないんだぞと、頭を殴られたような衝撃があった。それなりに手間と時間のコストをかけないと、正しさは導けない。きちんとした手順に則って初めて、それは私刑では無くなる。

覚醒剤の乱用を繰り返す歌手のことを、誰が裁く権利があるんだろうと思った。法に則った正義は、とても手間暇かけて疑い深い。でもそうしなければ、加害者と被害者、両方に対して正義を公正に適用出来なくなる。

正義とは、関わった主体全てに出来る限り共通する事実を見つけ出し、その事実と法を照らし合わせて不正を裁く手続きの総体の事だと思った。決して、何らかの不正をした「ように見える」人を、有象無象の声に紛れてストレス解消代わりに叩く私刑の事ではないのだ。

模擬的な実況検分に立ち会い、逮捕者の一員になる旨の説明を受け、解放されたのは夜中の3時半だった。実に5時間を超えた、中々に長い社会勉強だった。帰り際、交通費と日給にも満たない額の謝礼をいただいた。両方とも期待なんかしてなかったけれど、あまり額が多いと利益供与とか言われてしまうから仕方ないのは百も承知だけれど、電車が全く動いてない時間だったにも関わらず、交通費が電車賃の実費だけしか頂けなかった事に対しては声を大にして言いたい。

「正義なんて無かった」

お後がよろしいようで。

人間の中の獣、記憶の蓄積

何故女性は産前産後と周期的なそれの期間中獣にも似て感情的になるのかと考えた時に、子供を産むから、またはその準備をするから弱い子供と自分の身体を守るためだと気付いて、何だかもう少し面白い理由があって欲しかったような拍子抜けしたような気分になった。

でもこんな風に、動物としての蓄積された記憶が為す行動は少なくはない。ステレオタイプは思考の節約即ち生命力の温存で、子供を産まない誰かに対する嫌悪感は血脈が断たれる事への本能的な恐怖でしかない。

それらを自分の中で解消出来ぬまま道徳の衣を着せて人に押し付けようとすると歪みが生じて、理性的な誰かが止めるまで怒りが伝播する。

逆に言えば多くの事はそれで理由がつくかもしれなくて、病む程に自省する理由もまたないのかもしれない。

文字通り「生理的なものだから気にしなくても良いよね」というだけの事実を、よくもここまで脚色したなと自分でも思った。

アイヒマン・ショー

語る事で傷ついてしまう人が少なくなる程に時間が経って初めてピースが揃い、歴史は俯瞰出来る。それまでは、まるでゴール裏で観戦するサッカーのように、全体像が見えない。そして当事者は、見えている事実のみを基に自らを主張する。

WW2終戦から20年程しか経っていない、事実が未だ歴史ではなく記憶として息づく時代に、ナチスドイツ幹部の数少ない生き残りであるアイヒマンは拘束された。イスラエルで裁かれる事になった彼の裁判を追った、半ばドキュメンタリーの映画である。

見えていた事実とは、強制収容所が存在した事、そこで死んだ者とそこから生還した者がいた事。見えていなかった事実とは、そこで実際に行われていた具体的な行為。

今でこそ歴史を知っていれば常識とも言える事実が、雄弁な映像と共に全世界に晒される。にわかには信じ難い苛烈な体験を自分の言葉のみでは信じてもらえず、二重それ以上の苦しみに苛まれ続けた生還者達が、一欠片の救いを得る。対してアイヒマンは黙して語らず、「彼は私たちと同じ人間ではあり得ない」と信じ切る人々に拠り所を与えない。

事実を知るという行為の帰結には、救いも残酷さも含まれる。それでも何故、足りないピースを人は探したがるのだろうといつも思っていたけれど、答えを知った上でオリジナルの解釈を付け加える事で安心したいのかもしれないと思った。アイヒマンを追い続けた監督は、動かない表情の先に、自分達と同じ人間らしさを探した。それが破れた時に挫折しそうにもなった。それでも尚、最後に残った空間を埋める為に撮り続けた。

ドキュメンタリーであるが故に、爽快感は薄く納得も難しく、多様な解釈が存在し得る。作品は単体で完結すべきだとは思うけれども、この映画はハンナ・アーレントを回答編とするならば、その問題編のように見える。そちらを先に観てしまったが故に答え合わせのような感覚があったが、観て改めて、彼もまた人であったと感じた。環境と立場、時代に即して生きただけの人間で、抗う事は本当に難しい。誰であってもそうなり得るんだと、エンドロールの直前で撮影者は語った。それは、人間が普遍的に持つ傲慢への戒めなんだろうと思う。

チョコレート ドーナツ

ショーパブのダンサーと弁護士のゲイカップルが、障害があり育児放棄されている子供と知り合い愛するようになり、そして引き取ろうとするも、世間の様々な障壁に引き裂かれ、それでも2人を求めた子供が、そのせいで最終的に亡くなってしまう、実話を元にしたお話。

2人の愛の結晶を持つ事は不可能だから、だからこそ2人で愛する対象を求めた。その愛を求める子供が現れて、世間が3人を放っておいてくれるならば、静かに暮らして行けるはずだった。

男女の愛情表現なら問題にされない所が、男性同士だと問題にされてしまう。痛くない腹を探られ、小さな瑕疵が致命的なレベルに拡大解釈される。ただ、愛した対象と一緒にいたかっただけのささやかな願いが、断片的な側面を悪と見做す世間の集積によって踏みにじられる。

それでも、どんな設定でも、死を結末に持ってくるお話は、夢落ちに近い狡さがあると個人的には思っている。死はそれだけで強い物語性を持ち、色んなものをねじ伏せてしまう。それ以上に何かを示せなければ、納得出来なくなる。

この物語で子供の死が持っていたのは、偏見に塗れて見出してもらえなかった本質を、世間の集積へと突き付ける役割だった。モデルにした実話では子供は亡くなっていないそうで、それを考えると、余計にここに主題があったのではと考える。そして私は、死をもってしかその本質を突き付ける事が出来なかったのかと悲しくなったのと同時に、恐らく現実でも、それ位の強さを持った事実でないと世間は偏見に塗れたままなんだろうなと言う怒りを感じた。設定は70年代だから、今はもう少し状況が改善されているだろうとは思うものの、見た目では本能に逆らおうとする対象に、人はこうも無意識レベルで排除の目を向けるのだ。

偏見を持たずに生きるには知性が要る。偏見とは、思考リソースを節約するための思考停止の手段で、言い換えれば無駄にエネルギーを使わないための生存反応で、常に考え続けるには、無意識の欲求を制止する必要がある。たとえ見た目は本能に逆らった状態であったとしても、その指向を持つ事は制御不可能だ。感情レベルでの無意識の拒絶に、理性レベルでの規範が勝利する日が増えるようにと願う。