金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

悪意

誰かから何らかの不利益を被る時、理由が純粋な悪意に依る場合は思ったより多くはなく、ただの想像力の欠如だったり、その人の弱さだったりに起因する事の方が多い。

それでも悪意に依っていると思いたがるのは、悪意の存在が明確な理由はなくとも強い説得力を持つからで、そこで思考停止出来るからなんだろう。

縁の寿命が切れてしまった、かつての友人の事を思い出す機会があった。遅い疑似恋愛を舞台俳優に見出し、公演の度に上京し私を含む知人の家を転々とし、ただひたすら、都会に住む人が羨ましいと毎日のように呪詛を吐いている人だった。

羨ましさの裏返しか、関東に住む自分は随分と皮肉を言われていたけれど、学生時代からの彼女を知っていたから、遅い疑似恋愛でもその存在自体が嬉しかった。そういう柔らかい感情を否定し続けていた人だったから、例え疑似恋愛でも、男は女を変えるものだと感心していた。

でも、その疑似恋愛が深化するにつれ、羨ましさは募り、彼女が目指して入れなかった大学が関東にある事もあって、昔の彼女の不甲斐なさを含めて八つ当たりされるようになった。いくら原因が分かっているとは言え、純度の高い悪意に取れてしまう感情の継続的な発露は、私の情の蓄積を枯渇させるには十分だった。

悪意とは、相手の存在そのものを否定し消そうとする本能の発露だと、感覚で捉えてしまうものなんだろう。積み重なれば、感情は理性の言う事を聞かなくなる。最終的に、行動を決めるのは感情でしかない。

自分に起こる事で自分に原因が無い事は多くはないから、そこまで深化させてしまったのは、自分にも原因はあったのだろう。攻撃を止めてくれと伝えた事はあったけれど、その時言われた事への抗議で、継続的な行為へのそれでは無かった。それがあったら、まだ関係は続いていたのかもしれない。それなりに大事な、永いはずの友人だった。

何らかの負の感情の発露が、ただの悪意に見えないようにとはいつも気をつけている。言語化を重ねて理由を分解すれば、感覚の部分は小さくなる。これからも誰かに憎しみを感じない事はあり得ないけれど、それがただの悪意に変わる前に、必要な努力はしたいと思う。