金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

職業と言う環境

昔、知人が大学で希望のゼミに入った時、担当教授がこんな事を言っていたそうだ。

「君たちの中で、自分の意志で生きていると思う人間はどれ位いるかね?人はみな、環境に動かされ、環境に考えさせられている。自分の意志のみで自分を動かせていると思っていたら、大間違いだ。」

知人はそれを聞いて以来、全てのものを環境と捉え、それを改善するようにして来たら、色々な事が良く回るようになったと語っていた。その典型的な例は居室だったり職場だったりするんだろうけれど、友人や、食事や、運動や、インプットする情報までも全てに於いて考えて選ぶようにしていると聞いて、良く考えたら当たり前の事なんだけど、自分の意志のみで人は生きてはいないと言う概念は衝撃だった。

もっと平たく言えば、環境を整える事で心を安らかにし、感情のコントロールをし易くすると言う事で、当時感情のコントロールに悩んでいた自分にとって、意思は意志でコントロール出来るものではないと言う考えは救いでもあった。

そう言えば、芯は強いのに自我の薄い自分の父親は、他の国で言う所の軍人で、基本的には情に厚く、いざとなると冷静で現実的な母親は、医療職に就いている。全てに於いて緻密な計算を施すその知人は、会計士だ。

環境に意思が影響を受けるなら、多く晒される環境程影響が大きいのは自明の理だろう。職業のあり方もまた人を作り、長く続けるうちに人格そのものになる。

海老蔵さんの、奥様の麻央さんの乳がんについての会見で、心ある人ならとても出来ないようなきつい質問をぶつけ続ける記者を見ながら、彼らも最初からあんな風に質問出来ていたんだろうかと思った。特ダネを追い求める同業他社と、それを要求し続ける上層部と、自らの功名心と、そして少なくない数の自分と同じ立場の人と、これだけ揃った環境に人格が最適化してしまえば、元々の人格なんて変わってしまうんだろう、そして、そこに最適化出来る人が生き残れるんだろう。

以前、自殺未遂を起こした某女性歌手の家族に、やはり心無い質問をぶつける人をテレビで見ながら、一緒にそれを見ていた家族が、ぽつりと「きっとあの人達だってね、あんな事がしたくて会社に入った訳じゃないんだよ」と言っていたのを、今でも強烈に覚えている。

その行為自体は許される事ではなくても、その行為によって深く傷付く人がいても、それを超える必要性を環境から突き付けられたら、人格で抗える人はきっとそうは多く無い。例えそれが、外から見れば人間として当然だと思われる行為であったとしても、集団が個に勝る場面が多い日本なら尚更。

環境に負けない強い人格を目指すんじゃなくて、抗う必要の無い環境を揃える方が多分、労力は少ない。適材適所とは言うけれど、持ちたい人格に合わせて職業を選べるなら、こんなに幸せな事は無いんだろう。どんな事でも、最終的な選択はその人にあるから、その行為に心から同情する事は無いにしても、一人でも良いから、苦しみながらも職務を全うしようとしている人がいてくれたらなと思う。