金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

マッチポンプの感傷

何らかの大事なものが消えてしまう時に、もし自分にその原因があったとして、消えてしまう前に原因に気づいていたのに何もしないままその消失を惜しむなら、それはマッチポンプの感傷でしかないといつも思う。

ましてや、その消失を恐れて行動しかつ忠告していた人がいた時には、「だから言ったじゃないか」としか思えない。

どんなものでも、行動と言葉の両方を駆使して初めて大事に出来る。前者のみならば気付かれなくても抗議は出来ない覚悟が必要となり、後者のみなら何の中身も無い。失わないと大事さに気付けなかったのなら、己が愚かだったか、それ程大事なものでも無かったかだ。

自分が関わる全ての物事の帰結の捉え方(原因そのものではない)は、たとえどんな不条理が存在しても、基本的に自分に責任がある。そう思えないと、己の苦しみは永遠に他者の気紛れに操作される。

自己憐憫は、覚悟と不条理を伴ってこそ美しい。石を投げたい程の無責任な感傷でも、それはその人の物だ。でもそれは、失うまいとして努力した者の無念と、どちらが大きいのか。比べる物では無いと分かっていても、憤りと共に後者を想う。