金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

装飾品としての外国語

先日twitterで、友人から回って来たツイートに、「その人が作っている替え歌の一部のフレーズで、元歌が英語の部分を、違う意味の英語のフレーズにしたい」と言うものがあった。

面白かったのだけれど、1フレーズに詰めたい意味が多過ぎる上に、訳語の音節が多過ぎるのに代替する語もなく、しかも音にハマりそうになかった。詰めたい意味のどれかを行間送りにしようと考えていたのだけれど、和製英語の略語で、その音節の多い訳語をさっくりカット出来るものを見つけた。

翻訳の仕事であれば、外国人が読む英語でまず通じない和製英語は選ばない。しかし状況的に、日本人しか読まない英語で、しかもその和製英語の略語は、それ以外の言葉を使うと一気に意味の通りが悪くなってしまう程度には普遍的に使われているものだった。

その略語を採用した所、元歌の響きを残したい箇所も、自分が使いたかった表現も収める事が出来て、かつリクエストにもほぼ合ったフレーズを作る事が出来た。翻訳者として、和製英語を使わざるを得なかった悔しさはあるものの、ツイートのお遊びとは言え、作詞家としては非常に満足だった。

以前、ある著名な通訳者が、華原朋美の歌の歌詞の文法的な誤りを指摘していた事がある。"Hate tell a lie"という歌についてで、恐らく「嘘をつくのは嫌」と言うフレーズをそのまま直訳したものだと思われるが、これは動詞が文頭に来るから命令形で、しかしそう仮定したとしても文型がおかしいので、無理矢理解釈するならばHateの後にコンマを入れて「憎め、嘘をつけ」になるというもので、訳としては非常に正しい指摘だったものの、歌詞と言う観点からすると若干の違和感が残った。

歌詞には、意味と言葉の正しさを捨てても、その場にその言葉がある事が全体を飾る「装飾品」としての外国語が必要な場合があるんだろう。それは元の外国語に対して不誠実であっても、全体を締め、外国語が持つ「ニュアンスまではつかめない、感覚としての意味の分からなさ」が行間を作る。

全ての表現手段の有り様に対して誠実で、かつ自分の表現したい事柄を詰めるのはとても難しくて、そこには必ず取捨選択が必要になる。よしんば全てが成立したとしても、それは受け取り手が入り込む余地のない窮屈なものになってしまうのかもしれない。そこで決めた優先順位が全体を洗練させ、捨てたものの上に選んだものが輝くのだろう。優先順位は、作ったものがどんな状況に置かれるかによって決まり、作り手の好みに依ってしまった時点で独りよがりになる。

翻訳は、同じ色の絵の具を違う素材に塗り込める作業で、作詞は出来るだけ少ない色の点で全体を表現する作業だと思っている。中々両方を並行させる事が出来ないのだけれど、両方のつくりをもっと知る事で、より簡単に切り替えが出来るようにな気がした。