金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

語られない言葉

昔、大勢に向けて言葉を語る事は、それを職業とする人のみに限られる事がほとんどだった。何でもない人の、普段から生まれる何でもない思いは、口頭以外で多くの誰かに知られる事は無いのかとずっと思っていた。

インターネットが普及して、それはインターネットにアクセス可能な全ての人に可能な作業になった。その結果生まれたのは、職業を担保とする責任を持たない、言葉の混沌だった。それでもまだ、SNSスマートフォンの両方が普及するまでは、その混沌がまとまった形で目に入る事は、今ほどは無かった。

SNSで、毎日のように誰かが誰かを賞賛し、誰かが誰かを罵る。そこにいる人の感情そのものが娯楽と化して、以前漠然と考えていた、何でもない人の何でもない思いに常に触れられるようになった。それを素敵だとも酷いとも思わないけれど、環境に恵まれた結果混沌とする世界と、環境に恵まれる人が少ないために大きな混沌の起きない世界とでは、どちらが構成員の幸せの総量が大きいのかとは思う。

短く切り取られた言葉の束が見せる、辟易する程の量の感情は、切り取られるが故に、それに多く触れる客観性を持たない者の物の見方を近視眼化させて、また辟易する程の量の感情の一部になる。その一部にすらならない、語られない言葉の方が、余程語られる価値がある場合は少なくない気がする。

人が好ましげな未知のものに夢を持つのは、それが言語化されず、理解出来た気にいい意味でなれないからなのかもしれない。切り落とされた言葉の先を少しでも予測出来るのなら、今よりも感情が揺らされる事は無いのかもしれないと思う。