金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

アイヒマン・ショー

語る事で傷ついてしまう人が少なくなる程に時間が経って初めてピースが揃い、歴史は俯瞰出来る。それまでは、まるでゴール裏で観戦するサッカーのように、全体像が見えない。そして当事者は、見えている事実のみを基に自らを主張する。

WW2終戦から20年程しか経っていない、事実が未だ歴史ではなく記憶として息づく時代に、ナチスドイツ幹部の数少ない生き残りであるアイヒマンは拘束された。イスラエルで裁かれる事になった彼の裁判を追った、半ばドキュメンタリーの映画である。

見えていた事実とは、強制収容所が存在した事、そこで死んだ者とそこから生還した者がいた事。見えていなかった事実とは、そこで実際に行われていた具体的な行為。

今でこそ歴史を知っていれば常識とも言える事実が、雄弁な映像と共に全世界に晒される。にわかには信じ難い苛烈な体験を自分の言葉のみでは信じてもらえず、二重それ以上の苦しみに苛まれ続けた生還者達が、一欠片の救いを得る。対してアイヒマンは黙して語らず、「彼は私たちと同じ人間ではあり得ない」と信じ切る人々に拠り所を与えない。

事実を知るという行為の帰結には、救いも残酷さも含まれる。それでも何故、足りないピースを人は探したがるのだろうといつも思っていたけれど、答えを知った上でオリジナルの解釈を付け加える事で安心したいのかもしれないと思った。アイヒマンを追い続けた監督は、動かない表情の先に、自分達と同じ人間らしさを探した。それが破れた時に挫折しそうにもなった。それでも尚、最後に残った空間を埋める為に撮り続けた。

ドキュメンタリーであるが故に、爽快感は薄く納得も難しく、多様な解釈が存在し得る。作品は単体で完結すべきだとは思うけれども、この映画はハンナ・アーレントを回答編とするならば、その問題編のように見える。そちらを先に観てしまったが故に答え合わせのような感覚があったが、観て改めて、彼もまた人であったと感じた。環境と立場、時代に即して生きただけの人間で、抗う事は本当に難しい。誰であってもそうなり得るんだと、エンドロールの直前で撮影者は語った。それは、人間が普遍的に持つ傲慢への戒めなんだろうと思う。