金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

才能は悲しみと共に

何らかの創作を嗜む人で、才能のある人を無邪気に羨む人の無邪気さが苦手だ。以前も書いた記憶があるが、自称シンガーソングライターの昔の知人が「創作の源になる悲しみを持った人がずっと羨ましかったけれど、そんなもの無い方が良いんだと思った」と言うような趣旨の事を言っていたのを聞いて、その人の作るものが微妙な理由を垣間見た気がした。

先天的な才能も、後天的な才能もどちらもあって、前者は律するのに高潔な人格を必要とし、後者は何らかの悲劇的な経験があるが故にそうなっていると思う。前者の例は玉置浩二や飛鳥で、後者のそれは秋元康YOSHIKIがあてはまると考える。

玉置浩二はあれだけの才能を律するのに、献身的な奥様と時間の経過が必要だったし、飛鳥は才能に負けて精神的に還らぬ人となってしまったに等しい。秋元康は東大に入り官僚になる夢が叶わず「今の生活はドロップアウト」だと明言しているし、YOSHIKIは早くに父親が自殺した。

多くの富と名声を得たけれど、内に怪物を飼うか、または何かを失ってまで欲しいものだったかと思うと、必ずしもそうではない気がする。ただ、悲しみを得たからには代償が欲しい。答えを探した道程が創作物に変わったのならば、だからこそ説得力を持つように思う。

才能は、憧れている間が一番幸せなんだろう。得た後の苦悩も、得るまでの悲しみも、望んで背負わされはしない。ただ一旦背負わされてしまったならば、そこにあるものを活かして生きる事も出来る、ただそれだけの話だ。

才能を得てしまった人々が、その上で幸せだと言えて欲しい。そういう人々の悲しみを目の当たりにする度に、望んだ訳では無い才能が、彼らに幸せをもたらす事を願う。