金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

数年前、飼い猫が悪性腫瘍を患い、2ヶ月程で虹の橋を渡ってしまった。短い闘病期間だったけれど、あれ程一つの事に真剣に向き合った時間は、今までの人生でそう多くは無かった。人生のパートナーに等しかった猫で、ペットロスが怖くて防衛のためにそれ系の資料を読み漁った位だったけれど、案外3日位で喪失の苦しみは消えた。勿論、悲しみは今でも消えないけれど。

それから3週間しないうちに次に飼う猫が決まり、1ヶ月後には実際に飼い始めた。自分の変わり身の速さに自分でも引く位なんですよね、と担当の獣医先生に伝えた所、次のような言葉が返って来た。

「闘病をやり切った人程、切り替えが早いんですよ。闘病期間中に迷う事が多かった人は、ペットが亡くなってからも迷い続ける事が多いです。」

出来る事なら、私の命を削っても良いとまで思っていた。それまで、大人は結果でのみ救われるとしか思っていなかったから、心が洗われるようだった。過程に於いて真剣さの純度が高い程、結果と心の救済との相関は弱くなるような気がした。

未練とは、真剣さの隙間に入り込む闇なのかもしれない。挑戦に結果が伴わなかったとしても、真剣であったならば心は強くなり、次の挑戦のための土台になる。正しさの証明は結果でしか出来ないのかもしれないし、方向が適切でなければ、努力は徒労に変わる。それでも、その二つを伴うという仮定の上では、挑戦が求める心の救済は、結果を必要としなくなるんだろう。

お釈迦様も、昔のローマの偉い人も、要約すると「今が大事」だと言っていた。デジタルな選択の連続が、アナログを作る。未練の連続が後悔にならないように今を選び取って行けるなら、未来も過去もそう気に病まなくても良いのかもしれない。