金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

チョコレート ドーナツ

ショーパブのダンサーと弁護士のゲイカップルが、障害があり育児放棄されている子供と知り合い愛するようになり、そして引き取ろうとするも、世間の様々な障壁に引き裂かれ、それでも2人を求めた子供が、そのせいで最終的に亡くなってしまう、実話を元にしたお話。

2人の愛の結晶を持つ事は不可能だから、だからこそ2人で愛する対象を求めた。その愛を求める子供が現れて、世間が3人を放っておいてくれるならば、静かに暮らして行けるはずだった。

男女の愛情表現なら問題にされない所が、男性同士だと問題にされてしまう。痛くない腹を探られ、小さな瑕疵が致命的なレベルに拡大解釈される。ただ、愛した対象と一緒にいたかっただけのささやかな願いが、断片的な側面を悪と見做す世間の集積によって踏みにじられる。

それでも、どんな設定でも、死を結末に持ってくるお話は、夢落ちに近い狡さがあると個人的には思っている。死はそれだけで強い物語性を持ち、色んなものをねじ伏せてしまう。それ以上に何かを示せなければ、納得出来なくなる。

この物語で子供の死が持っていたのは、偏見に塗れて見出してもらえなかった本質を、世間の集積へと突き付ける役割だった。モデルにした実話では子供は亡くなっていないそうで、それを考えると、余計にここに主題があったのではと考える。そして私は、死をもってしかその本質を突き付ける事が出来なかったのかと悲しくなったのと同時に、恐らく現実でも、それ位の強さを持った事実でないと世間は偏見に塗れたままなんだろうなと言う怒りを感じた。設定は70年代だから、今はもう少し状況が改善されているだろうとは思うものの、見た目では本能に逆らおうとする対象に、人はこうも無意識レベルで排除の目を向けるのだ。

偏見を持たずに生きるには知性が要る。偏見とは、思考リソースを節約するための思考停止の手段で、言い換えれば無駄にエネルギーを使わないための生存反応で、常に考え続けるには、無意識の欲求を制止する必要がある。たとえ見た目は本能に逆らった状態であったとしても、その指向を持つ事は制御不可能だ。感情レベルでの無意識の拒絶に、理性レベルでの規範が勝利する日が増えるようにと願う。