金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

正義はお手軽ではない

人を逮捕した。した事になってしまった。詳しくは書かないが、とある性犯罪の一部を始終目撃した。被害者を守りつつ係員に犯人を突き出し、警察の方が来るまでの間、犯人は何故か私に謝り続け、その気持ち悪い時間は永遠にも感じた。

最初は示談で済まされると思っていたのだが、どうもその手続きは飛ばして110番されたらしく、結構な人数の警察の方が来て下さった。状況についていくつか質問をされた後、個人情報を渡し、被害者の方と一緒に警察署に移動した。

知人ではないために、被害者とは別室、所謂取調室に通された。ここに来た事がある人生になってしまったかと思ったけれど、何も犯人だけがそうなるのでもない。

私服の方、制服の方、色んな方が入れ替わり立ち替わり入って来て、起きた場所でもされたのと同じ質問をされた。同じ質問に答えた回数は、総計で二桁になった。整合性を取るためだろうし、その事前知識はあったものの、深夜近かったせいもあってか、流石に心身に堪えた。段々、自分の言葉の境目が分からなくなって行った。だから余計に、話している事実の整合性を自分でも取る必要があった。寒い部屋で固い椅子に長時間座らされる、随分と非日常で過酷な状況で、頭のリソースが急速に無くなって行った。それでも、正義感と呼ぶには薄い義務感で答え続けた。

そのうちに、パソコン一式を持った方が入って来た。後から分かったのだけど、供述調書だとか、そういう書類を作成される方だった(今までの聴取は、書類作成には全く関係が無かった!)。優しいおじいちゃん警察官で、一般人のただの興味本位な質問に、守秘義務に触れないだろう範囲で色々と答えてくださった。この方が来てからは、そこに居る事が少し楽しくなった。

「もし犯人が否認して、私と被害者の方の供述が一致した場合、犯人はどうなるんですか?」

「えーと、もう既に逮捕されてますよ。」

事もなげにあっさり答えられて、背筋が凍った。今日犯人は家族に連絡を取ることは出来ず、その理由を会社と家族に説明しなければならない。その事後がどうなるか、容易に想像が出来る。罪悪感は無かったけれど、自分の行為の重さが背中に覆いかぶさって来た。

「事前に知ってはいましたが、随分と同じ質問を何回もされるんですね」

「そうですね、(供述調書に)書く事に間違いがあってはいけないので。申し訳ございませんがご協力ください。これが、悪い事をした、人1人を裁く重さなんですよね」

正義とはお手軽ではないんだぞと、頭を殴られたような衝撃があった。それなりに手間と時間のコストをかけないと、正しさは導けない。きちんとした手順に則って初めて、それは私刑では無くなる。

覚醒剤の乱用を繰り返す歌手のことを、誰が裁く権利があるんだろうと思った。法に則った正義は、とても手間暇かけて疑い深い。でもそうしなければ、加害者と被害者、両方に対して正義を公正に適用出来なくなる。

正義とは、関わった主体全てに出来る限り共通する事実を見つけ出し、その事実と法を照らし合わせて不正を裁く手続きの総体の事だと思った。決して、何らかの不正をした「ように見える」人を、有象無象の声に紛れてストレス解消代わりに叩く私刑の事ではないのだ。

模擬的な実況検分に立ち会い、逮捕者の一員になる旨の説明を受け、解放されたのは夜中の3時半だった。実に5時間を超えた、中々に長い社会勉強だった。帰り際、交通費と日給にも満たない額の謝礼をいただいた。両方とも期待なんかしてなかったけれど、あまり額が多いと利益供与とか言われてしまうから仕方ないのは百も承知だけれど、電車が全く動いてない時間だったにも関わらず、交通費が電車賃の実費だけしか頂けなかった事に対しては声を大にして言いたい。

「正義なんて無かった」

お後がよろしいようで。

人間の中の獣、記憶の蓄積

何故女性は産前産後と周期的なそれの期間中獣にも似て感情的になるのかと考えた時に、子供を産むから、またはその準備をするから弱い子供と自分の身体を守るためだと気付いて、何だかもう少し面白い理由があって欲しかったような拍子抜けしたような気分になった。

でもこんな風に、動物としての蓄積された記憶が為す行動は少なくはない。ステレオタイプは思考の節約即ち生命力の温存で、子供を産まない誰かに対する嫌悪感は血脈が断たれる事への本能的な恐怖でしかない。

それらを自分の中で解消出来ぬまま道徳の衣を着せて人に押し付けようとすると歪みが生じて、理性的な誰かが止めるまで怒りが伝播する。

逆に言えば多くの事はそれで理由がつくかもしれなくて、病む程に自省する理由もまたないのかもしれない。

文字通り「生理的なものだから気にしなくても良いよね」というだけの事実を、よくもここまで脚色したなと自分でも思った。

アイヒマン・ショー

語る事で傷ついてしまう人が少なくなる程に時間が経って初めてピースが揃い、歴史は俯瞰出来る。それまでは、まるでゴール裏で観戦するサッカーのように、全体像が見えない。そして当事者は、見えている事実のみを基に自らを主張する。

WW2終戦から20年程しか経っていない、事実が未だ歴史ではなく記憶として息づく時代に、ナチスドイツ幹部の数少ない生き残りであるアイヒマンは拘束された。イスラエルで裁かれる事になった彼の裁判を追った、半ばドキュメンタリーの映画である。

見えていた事実とは、強制収容所が存在した事、そこで死んだ者とそこから生還した者がいた事。見えていなかった事実とは、そこで実際に行われていた具体的な行為。

今でこそ歴史を知っていれば常識とも言える事実が、雄弁な映像と共に全世界に晒される。にわかには信じ難い苛烈な体験を自分の言葉のみでは信じてもらえず、二重それ以上の苦しみに苛まれ続けた生還者達が、一欠片の救いを得る。対してアイヒマンは黙して語らず、「彼は私たちと同じ人間ではあり得ない」と信じ切る人々に拠り所を与えない。

事実を知るという行為の帰結には、救いも残酷さも含まれる。それでも何故、足りないピースを人は探したがるのだろうといつも思っていたけれど、答えを知った上でオリジナルの解釈を付け加える事で安心したいのかもしれないと思った。アイヒマンを追い続けた監督は、動かない表情の先に、自分達と同じ人間らしさを探した。それが破れた時に挫折しそうにもなった。それでも尚、最後に残った空間を埋める為に撮り続けた。

ドキュメンタリーであるが故に、爽快感は薄く納得も難しく、多様な解釈が存在し得る。作品は単体で完結すべきだとは思うけれども、この映画はハンナ・アーレントを回答編とするならば、その問題編のように見える。そちらを先に観てしまったが故に答え合わせのような感覚があったが、観て改めて、彼もまた人であったと感じた。環境と立場、時代に即して生きただけの人間で、抗う事は本当に難しい。誰であってもそうなり得るんだと、エンドロールの直前で撮影者は語った。それは、人間が普遍的に持つ傲慢への戒めなんだろうと思う。

チョコレート ドーナツ

ショーパブのダンサーと弁護士のゲイカップルが、障害があり育児放棄されている子供と知り合い愛するようになり、そして引き取ろうとするも、世間の様々な障壁に引き裂かれ、それでも2人を求めた子供が、そのせいで最終的に亡くなってしまう、実話を元にしたお話。

2人の愛の結晶を持つ事は不可能だから、だからこそ2人で愛する対象を求めた。その愛を求める子供が現れて、世間が3人を放っておいてくれるならば、静かに暮らして行けるはずだった。

男女の愛情表現なら問題にされない所が、男性同士だと問題にされてしまう。痛くない腹を探られ、小さな瑕疵が致命的なレベルに拡大解釈される。ただ、愛した対象と一緒にいたかっただけのささやかな願いが、断片的な側面を悪と見做す世間の集積によって踏みにじられる。

それでも、どんな設定でも、死を結末に持ってくるお話は、夢落ちに近い狡さがあると個人的には思っている。死はそれだけで強い物語性を持ち、色んなものをねじ伏せてしまう。それ以上に何かを示せなければ、納得出来なくなる。

この物語で子供の死が持っていたのは、偏見に塗れて見出してもらえなかった本質を、世間の集積へと突き付ける役割だった。モデルにした実話では子供は亡くなっていないそうで、それを考えると、余計にここに主題があったのではと考える。そして私は、死をもってしかその本質を突き付ける事が出来なかったのかと悲しくなったのと同時に、恐らく現実でも、それ位の強さを持った事実でないと世間は偏見に塗れたままなんだろうなと言う怒りを感じた。設定は70年代だから、今はもう少し状況が改善されているだろうとは思うものの、見た目では本能に逆らおうとする対象に、人はこうも無意識レベルで排除の目を向けるのだ。

偏見を持たずに生きるには知性が要る。偏見とは、思考リソースを節約するための思考停止の手段で、言い換えれば無駄にエネルギーを使わないための生存反応で、常に考え続けるには、無意識の欲求を制止する必要がある。たとえ見た目は本能に逆らった状態であったとしても、その指向を持つ事は制御不可能だ。感情レベルでの無意識の拒絶に、理性レベルでの規範が勝利する日が増えるようにと願う。

告白

夏目漱石が「月が綺麗ですね」と答えた例の質問には、自分であれば「私、弱いんですよ」と答える。

大事な人だけが知っていて欲しい秘密。公衆の面前にそれを晒す事は、破廉恥でしかない。

じゃあ今ここに書くのはどうなんだと言われたら、一般論だと返すしかないけれど。

語られない言葉

昔、大勢に向けて言葉を語る事は、それを職業とする人のみに限られる事がほとんどだった。何でもない人の、普段から生まれる何でもない思いは、口頭以外で多くの誰かに知られる事は無いのかとずっと思っていた。

インターネットが普及して、それはインターネットにアクセス可能な全ての人に可能な作業になった。その結果生まれたのは、職業を担保とする責任を持たない、言葉の混沌だった。それでもまだ、SNSスマートフォンの両方が普及するまでは、その混沌がまとまった形で目に入る事は、今ほどは無かった。

SNSで、毎日のように誰かが誰かを賞賛し、誰かが誰かを罵る。そこにいる人の感情そのものが娯楽と化して、以前漠然と考えていた、何でもない人の何でもない思いに常に触れられるようになった。それを素敵だとも酷いとも思わないけれど、環境に恵まれた結果混沌とする世界と、環境に恵まれる人が少ないために大きな混沌の起きない世界とでは、どちらが構成員の幸せの総量が大きいのかとは思う。

短く切り取られた言葉の束が見せる、辟易する程の量の感情は、切り取られるが故に、それに多く触れる客観性を持たない者の物の見方を近視眼化させて、また辟易する程の量の感情の一部になる。その一部にすらならない、語られない言葉の方が、余程語られる価値がある場合は少なくない気がする。

人が好ましげな未知のものに夢を持つのは、それが言語化されず、理解出来た気にいい意味でなれないからなのかもしれない。切り落とされた言葉の先を少しでも予測出来るのなら、今よりも感情が揺らされる事は無いのかもしれないと思う。

装飾品としての外国語

先日twitterで、友人から回って来たツイートに、「その人が作っている替え歌の一部のフレーズで、元歌が英語の部分を、違う意味の英語のフレーズにしたい」と言うものがあった。

面白かったのだけれど、1フレーズに詰めたい意味が多過ぎる上に、訳語の音節が多過ぎるのに代替する語もなく、しかも音にハマりそうになかった。詰めたい意味のどれかを行間送りにしようと考えていたのだけれど、和製英語の略語で、その音節の多い訳語をさっくりカット出来るものを見つけた。

翻訳の仕事であれば、外国人が読む英語でまず通じない和製英語は選ばない。しかし状況的に、日本人しか読まない英語で、しかもその和製英語の略語は、それ以外の言葉を使うと一気に意味の通りが悪くなってしまう程度には普遍的に使われているものだった。

その略語を採用した所、元歌の響きを残したい箇所も、自分が使いたかった表現も収める事が出来て、かつリクエストにもほぼ合ったフレーズを作る事が出来た。翻訳者として、和製英語を使わざるを得なかった悔しさはあるものの、ツイートのお遊びとは言え、作詞家としては非常に満足だった。

以前、ある著名な通訳者が、華原朋美の歌の歌詞の文法的な誤りを指摘していた事がある。"Hate tell a lie"という歌についてで、恐らく「嘘をつくのは嫌」と言うフレーズをそのまま直訳したものだと思われるが、これは動詞が文頭に来るから命令形で、しかしそう仮定したとしても文型がおかしいので、無理矢理解釈するならばHateの後にコンマを入れて「憎め、嘘をつけ」になるというもので、訳としては非常に正しい指摘だったものの、歌詞と言う観点からすると若干の違和感が残った。

歌詞には、意味と言葉の正しさを捨てても、その場にその言葉がある事が全体を飾る「装飾品」としての外国語が必要な場合があるんだろう。それは元の外国語に対して不誠実であっても、全体を締め、外国語が持つ「ニュアンスまではつかめない、感覚としての意味の分からなさ」が行間を作る。

全ての表現手段の有り様に対して誠実で、かつ自分の表現したい事柄を詰めるのはとても難しくて、そこには必ず取捨選択が必要になる。よしんば全てが成立したとしても、それは受け取り手が入り込む余地のない窮屈なものになってしまうのかもしれない。そこで決めた優先順位が全体を洗練させ、捨てたものの上に選んだものが輝くのだろう。優先順位は、作ったものがどんな状況に置かれるかによって決まり、作り手の好みに依ってしまった時点で独りよがりになる。

翻訳は、同じ色の絵の具を違う素材に塗り込める作業で、作詞は出来るだけ少ない色の点で全体を表現する作業だと思っている。中々両方を並行させる事が出来ないのだけれど、両方のつくりをもっと知る事で、より簡単に切り替えが出来るようにな気がした。