金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

本能を超えるもの

もう長い友達に子供が出来たそうで、ギリギリな年齢にある私は正直羨ましくて仕方ないけれど、遺伝的な事情もあって諦めてもいる。

最初聞いた時は泣くほど喜んで、それでも、変わって行かないで、という複雑な気持ちもあり、でもそれは、喜んでいない訳ではなかった。単に勝手に自己投影して、事実を頭で混同しているだけだった。何故私は素直に喜べないの?などと言う、安い自虐に酔える時期はとうの昔に過ぎたのに、まだ幼い頃に簡単に自分を救ってくれたそれを、どうしても思い出す。

当たり前の事を無意識に喜べる精神性は、神様がくれた宝物なんだろうと思う。でも感情に濃淡があるからこそ、人間なんだという気がする。

社会が認める形で本能に沿って動ける事は、世間からの風当たりを少なくする事とほぼ同義だけれど、本能に逆らって尚安定していられる強い自我を持てるなら、それで事は済むんだろう。でも、常態的に自己の再定義が必要となる、あくまで台風の目でしかないその自我には、結局必死にしがみつく必要がある。

他者や所属が与える自己同一性を放棄しておきながらそれに焦がれるのは、それがあった場合の幸せと、それが無い場合との不幸せとをアンフェアに比べるからだろう。比較の無い状態で自己の有り様を認めていないからそうなるとも言える。

本能に逆らって年月が過ぎた時に、私は嫉妬に押し潰されて化け物になるのが怖いという話を、以前その友達にした事がある。それを自覚してるんならならないでしょうと言われたけれど、狂えてしまった方が楽な場面もきっとある。

それでも理性を抱えて生きようと思えるのは、その友達と自分が大事であるからに他ならない。表面上では濃淡を陽に塗り潰し、裏にある陰の濃淡を全て認めて、その両方を抱えた状態を認識したその上で、何でもないように振る舞う。12色の色鉛筆で事足りるような感情しか無かった頃よりかは、生きる事がもしかしたら面白いのかもしれないし、克服出来た時の喜びも大きいのかもしれない。

喜びも怒りも、哀しみも楽しみも一緒に経験して来た。妊娠したと聞いた時、おめでとうのすぐ後に、「子供産んでも友達で居てね」と思わず言ってしまった私に、「変わる訳ないでしょう」と言ってくれた友達を、これからも大事にしたいと思う。