金曜の夜に風邪を引く

決まりきらない想像の旅

瓦礫の上に

とても真剣な人の熱が冷める瞬間には多分、大事な人との別れにも似た悲しみがあるんだろう。理由が外的で統制不可能であればある程、それは大きくなる。

無念は皮膚に現れてかさぶたになって、涙と一緒に剥がれ落ちて行った。それは対象を冷やし、疲れだけを身体に残したように見えた。でも剥がれた痕の皮膚が思ったより綺麗に見えるのは、そこに次に向かう生命力があるからなのかもしれない。

終わった事だよ、と淡々と言う背中に、慰めも同情も要らない。意味を求める程に、人は止まっては居られない。別れも多くなる。それが必然なら、受け入れて進むしかない。

人は選び取ったものだけで成り立つのではなく、捨てた物の上に立っているのだといつも思う。かつて輝いていた自分の一部は、瓦礫と化しても今の自分への過程となって、もう一度自分の一部になる。

数多の瓦礫の上に立ち、選び取った物と共に進む。その先に、光があるようにと願う。

雲の階層

物心ついた後に初めて飛行機に乗った時、空から見た雲の階層の深さに驚いた。下から見た雲は一様に高い所にあるもので、一番低い階層が全てを覆い尽くす時、その上の世界は全く分からなくなるのだと知った。そもそも、雲の上に雲があるなんて思ってもいなかった。

高い所に行けば行く程下が見えるけれど、段々とその空気の薄さに耐えられなくなって孤独になる。高みとはそれ程に厳しく、そこに行ける体力と行こうとする意思と、行けるタイミングとの全てが揃わないと行けないんだろう。

それでも、高い所から雲の階層を数える事をずっと夢見ていたいと思う。今隣で見ている雲はこういう形をしていたんだと、常に下に見えるようになっていたいと思う。それが自分の中に根を張ってくれた目標への誠実さで、それに生かされている事への恩返しになる気がする。

隣の雲と共に生きて行くやり方もあるし、それを否定もしない。ただ、階層を数えたいと言いつつ、隣の雲と生きるだけの日々になっていないかはいつも監視するようにする。

いつか、成層圏でも呼吸したい。でももしそうなったら、また上を見るだけの話なんだろうな。いつも微かな息苦しさのある日常。でも、それで良いんだと思う。

孤独に還るということ

ストーカーが報われる現代の話を、ずっと読みたいと思っていた。知らない人に恋焦がれるなんて源氏物語の昔からある話なのに、石川ひとみの「まちぶせ」なんて一途な恋の物語の歌なのに、現代では全て「ストーカー」の名の下に断罪される。それだけ、個人の権利が細かく守られるようになって来たのは喜ばしい事なんだろうけれど、それを覆して尚説得力のある物語を読みたいと思っていた。

その期待は徹底的に裏切られた。一点を除いて、清々しいまでに主人公は報われない。最後は焦がれた人に黒と断定され、元あった孤独へと還って行く。そこだけを見たら、とても後味の悪い話だ。

でも、この主人公を、ストーカーだと断罪してしまった時点で、この物語が持つ、人の孤独や様々の負に対する辛辣なまでの誠実な描写を、理解出来なくなってしまうだろう。主人公が作中で口にしたような、グラデーションを持つ人の感情が、全て黒に塗り潰される。

望んでいたかは別にして、全てと引き換えに得た「書く」と言う呼吸の仕方を思い出せた恋、想いを否定された事によって、「書く」と言う孤独に立ち戻れたという事実、それがこの物語に用意された救いだった。そしてまた彼女は、再び見つけた孤独と共に生きて行くのだろう。でも多分、それを取り戻す前よりは、彼女は孤独ではない。

実体験からの言葉

経験から紡いだ言葉か、想像の産物か、どちらを増やせば言葉の引き出しが増えるのかずっと考えていたけれど、これを見てつくづく実感した。想像の産物としての言葉は、人生を賭けた言葉には勝てない。

それを肝に命じつつ、それでも、限りなく時間を使って実体験を増やし、想像の海を豊かにして言葉を産む事が、表現に対する誠実さなんだろうと思う。

誰かを救いたい

そう思う人はきっと、その行為によって自分が救われたがっている。誰かに心から救われたと思われる事は、重くて重くて仕方ないのにそれを欲しがる。

承認欲求なんかじゃ耐えられるはずもない。たとえ裏目に出て恨まれても後悔しない愛情と信念とが必要になる。

そこら辺には落ちていないし、キラキラもしていない。淡々としていて生々しいもの。簡単には言語化出来ない、すぐには気づかれないもの。

それでも人が救えるなら、それは結果でしかない。多分既に、対象の存在だけで、救おうとする人が救われている。 と言う事は、救おうとする時点で救われているんだろう。そんな余裕がある時点で、とても幸せだ。

職業と言う環境

昔、知人が大学で希望のゼミに入った時、担当教授がこんな事を言っていたそうだ。

「君たちの中で、自分の意志で生きていると思う人間はどれ位いるかね?人はみな、環境に動かされ、環境に考えさせられている。自分の意志のみで自分を動かせていると思っていたら、大間違いだ。」

知人はそれを聞いて以来、全てのものを環境と捉え、それを改善するようにして来たら、色々な事が良く回るようになったと語っていた。その典型的な例は居室だったり職場だったりするんだろうけれど、友人や、食事や、運動や、インプットする情報までも全てに於いて考えて選ぶようにしていると聞いて、良く考えたら当たり前の事なんだけど、自分の意志のみで人は生きてはいないと言う概念は衝撃だった。

もっと平たく言えば、環境を整える事で心を安らかにし、感情のコントロールをし易くすると言う事で、当時感情のコントロールに悩んでいた自分にとって、意思は意志でコントロール出来るものではないと言う考えは救いでもあった。

そう言えば、芯は強いのに自我の薄い自分の父親は、他の国で言う所の軍人で、基本的には情に厚く、いざとなると冷静で現実的な母親は、医療職に就いている。全てに於いて緻密な計算を施すその知人は、会計士だ。

環境に意思が影響を受けるなら、多く晒される環境程影響が大きいのは自明の理だろう。職業のあり方もまた人を作り、長く続けるうちに人格そのものになる。

海老蔵さんの、奥様の麻央さんの乳がんについての会見で、心ある人ならとても出来ないようなきつい質問をぶつけ続ける記者を見ながら、彼らも最初からあんな風に質問出来ていたんだろうかと思った。特ダネを追い求める同業他社と、それを要求し続ける上層部と、自らの功名心と、そして少なくない数の自分と同じ立場の人と、これだけ揃った環境に人格が最適化してしまえば、元々の人格なんて変わってしまうんだろう、そして、そこに最適化出来る人が生き残れるんだろう。

以前、自殺未遂を起こした某女性歌手の家族に、やはり心無い質問をぶつける人をテレビで見ながら、一緒にそれを見ていた家族が、ぽつりと「きっとあの人達だってね、あんな事がしたくて会社に入った訳じゃないんだよ」と言っていたのを、今でも強烈に覚えている。

その行為自体は許される事ではなくても、その行為によって深く傷付く人がいても、それを超える必要性を環境から突き付けられたら、人格で抗える人はきっとそうは多く無い。例えそれが、外から見れば人間として当然だと思われる行為であったとしても、集団が個に勝る場面が多い日本なら尚更。

環境に負けない強い人格を目指すんじゃなくて、抗う必要の無い環境を揃える方が多分、労力は少ない。適材適所とは言うけれど、持ちたい人格に合わせて職業を選べるなら、こんなに幸せな事は無いんだろう。どんな事でも、最終的な選択はその人にあるから、その行為に心から同情する事は無いにしても、一人でも良いから、苦しみながらも職務を全うしようとしている人がいてくれたらなと思う。